ところが宇宙論的な理念のうちでも第四の二律背反をひき起こした理念は、わたしたちにこの一歩をあえて歩ませるのである。現象というものが現実存在するのは、みずからのうちに根拠をもつからではなく、つねに条件づけられたものとしてである。そのためわたしたちはすべての現象と異なるもの、叡智的な対象のようなものがあるのではないかと探し回ることを[この理念に促されて]求められるのである。 (中略) この理念、すなわちすべての可能性の総体という理念は、その総体がそれぞれの物の〈あまねき規定〉の条件の根拠となっているかぎりでは、この総体を構成する述語[の具体的な内容]については、未規定である。だからわたしたちはこの理念では、[個々の述語の内容ではなく]たんに〈すべての可能な述語一般の総体〉しか考えることができない。しかしさらに詳細に考察してみると、次のことが理解できるようになる。すなわちこの理念はいわば〈原概念〉のような役割をはたすのであり、すでに他の述語から派生したものとして与えられている述語や、たがいに両立することのできない述語[のうちの片方]など、多数の述語を排除し、あまねくアプリオリに規定された概念にまでみずからを純化してゆくのである。そしてこの理念はある単独の対象の概念となるのであるが、この対象は純粋な理念のみによってあまねく規定されているのだから、純粋な理性の理想と名づけねばならないのである。 (中略) これはほとんど自明のことなのだが、理性がこのようにして物の必然的であまねき規定性[という理想]を実現しようと意図するにあたって前提としているのは、この理想にふさわしい存在者が現存することではなく、こうした存在者の理念が存在するということである。それはあまねき規定性という無条件的な全体性から、条件づけられた全体性を、すなわち〈制約されたもの〉を導きだすためなのである。だからこの理想はすべての物の原型であって、あらゆる物はこの原型のいわば欠陥のある模像なのである。あらゆる物はそれが可能となるためには、この原型から素材を取りだして、少しでもこの原型に近づこうとするのであるが、いつでも原型からは無限に離れているのであって、これに到達することはできない。 イマヌエル・カント『純粋理性批判』より
2023/12/13 10:45:49