6. 123 明らかなことだが、論理の法則というものは、自分で論理の法則に支配されてはならない。(どの「タイプ」にも固有の矛盾律がある、とラッセルは考えたが、矛盾律はひとつで十分だ。なにしろ矛盾律は、自分自身に適用されないのだから) 6. 1231 論理学の命題の目印は、一般的に妥当するということではない。一般的であるということは、「偶然、すべてのモノゴトに妥当する」ということにすぎないのだから。一般化されていない命題だって、一般化された命題とまったく同様にトートロジーである可能性もあるのだから。 6.1232 「論理的にすべてに妥当する」ということは、たとえば、「すべての人間は死すべきものだ」という命題が、あの「偶然、すべてに妥当する」ということとは逆に、本質的なことであると言えるかもしれない。ラッセルの「還元公理」のような命題は、論理的な命題ではない。このことから説明がつくのだが、私たちは、還元公理が正しいとしても、それはただ、好都合な偶然のおかげで正しいだけなのかもしれない、と感じている。 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より 近代以降に発達した型式認証という発想が、自由意志や目的論よりも特に戦時では重要だったのは明白な事だろう。尖った性能のものが1機あるよりも、低コストで飾り気のない、そして生産性の高いものが量産された方が理があるのは確かだ。 しかも操縦者も画一した操作方法を覚えるだけでよく、特定の人物しか操作できない特別機なんて役に立たない。こういった発想は特に航空機では顕著だろう。 (ウィトゲンシュタインも一時期、航空研究に従事していた。) 第一次世界大戦が勃発し、志願兵としてオーストリア軍に入隊していた間に、"論考"のアイデアをまとめていたという。極端にニヒルなのはそのためだと思う。彼は言わばずっと死と隣り合わせだった。 思い浮かぶのは、日本では二宮康明が航空機研究の仕事に憧れを抱くも、第二次対戦後の占領政策で叶わず、後に紙飛行機作家となった話である。(ケント紙を貼り合わせて作る、滞空時間が1分近くのもの) 模型とインダストリアルデザイン、そして戦時というのはどうも切り離せないようだ。極限まで無駄が排除され、それでも最高の性能を有し、しかも誰が扱っても同じ性能が出るもの。まずそういったところに模型の出発点があったと思う。
2024/04/02 22:09:55