Danu

自分なりに書いているが、教養や専門性の"レベル"は実は何も関係なく、核心を得られるかどうかはまた別の話なのは、ウィトゲンシュタインによって明らかにされるだろう。勉強は詰め込むべきか、マイペースでゆとりあるべきか?なんて議論に振り回されてきたように。しかも私は文系ですらない素人だ。 現代では大学も国立図書館も必要なく、古い哲学書なんてサブスクで読めるのだから、検索すれば瞬時に出てくるものだ。学歴や経験の有無は一切ガン無視して、あらゆるモノに生命を吹き込むのも、こうして自分次第となってしまったのだから。私に特別な才能はない。 いくらか補足がある。論理学でいう"タイプ理論"はバードランド・ラッセルが発見したとされるが、ウィトゲンシュタインの恩師のような人だったようだ。 そこでの学説というのは論理学的に「そのもの自体を考察する事」(カントの"物自体"と関係するかどうかは"分からない"がラッセルによればそれが正解だろう)と「関係性や関数的な変化」と「集合や集合体」の3種の問題を混同してはならない。混同したらパラドックスが発生し、悪循環に陥る。とざっくり言えばそんな内容のようだ。 (当欄も例に漏れないが、ポストモダン哲学は基本的に世界を"三界"で捉えるのはここからの流れにも見える) 代表的な型として自由意志のルソー、合目的論(ベクトルや関数的な理解)のカント、記号による分析哲学のラッセルというところで、ウィトゲンシュタインもラッセルの分析手法を真似るのであるが、途中で批判に転じてしまう。「自分自身が分析対象に含まれていない」と指摘して、デカルトのような自我論に回帰してしまう。「昔の方が良かった」みたいな。 まぁ現代こそ、それが当てはまりはしないか? 回避する方法とすれば、スキゾ・エクレクティック(分裂症的折衷)と昔は言われていたが、自我の方を分割して考える"モード"的手法がそうだった。コスプレ的な憑依というか、移入が激しい人格というか。 もう1つは漫画家のように、世界をプラネタリウムのように投影してしまえるような大局観を持つ事だろう。現代では哲学者は1人も居なくなり、漫画家がこれを継承したのだとしたら、日本は隠れた哲学大国かもしれない。(そんな学説など学者が許すはずもないが、こうして"好都合な偶然"として存在してしまったわけだ。)

2024/04/03 22:07:24

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